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Channel: ハイパー道楽の戦場日記
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レトロGUN MGC グロック17

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。
今回はMGCのグロック17です。

レトロガン4-09

レトロガン4-09-2

イラスト&解説: ユメピョン


レトロGUN 東京マルイのデザート・イーグル.50AE

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。
今回は東京マルイのデザート・イーグル.50AEです。

レトロガン4-10

イラスト&解説: ユメピョン

キングタイガーの親子

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キングタイガーのラジコンです。

もうね、なんか親子みたいな感じなわけです。

1/16と1/4のスケールモデル。

1/4って乗れそうな感じですよね。

外観も音もリアルです。でも空き缶がべったんこにならないところを見ると重量はそれほどでもないかもしれませんね。

東部戦線で活躍したスペイン青師団

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Cementerio_de_la_Almudena_04jul07_09 スペインは1931年に王国から共和国へと代わった。その際国内では軍部が台頭し、更に地主や教会などの旧勢力が入り乱れて国内は混乱した。

1936年に政府は議会を解散して総選挙を実施し、2月には左派勢力による人民戦線政府が誕生したが、その4ヵ月後には右派によるクーデターが発生し、国内は内戦状況となった。

これに目を付けたのがヒトラーである。ヒトラーは土地的にも重要な位置にあるスペインを枢軸側に引き込むために、反乱軍の首領であるフランコ将軍を援護した。ドイツ、イタリアから派遣された義勇軍のおかげもあり、スペイン内戦はフランコ将軍が勝利した。ヒトラーは当然、スペインが枢軸側に参加すると思っていたのだが、フランコ将軍は中立を維持した。

1940年に西部戦線で勝利したヒトラーは10月にフランコ将軍と会見した。その際ヒトラーはスペインを通過してジブラルタルを攻略する案を出したが、フランコはこれを拒絶した。更にフランコはヒトラーの提案を受け入れる見返りにフランス領モロッコの割譲を要求したが、ヒトラーは激怒した。

スペイン義勇軍の編成は、ドイツがソ連に侵攻した後から開始された。志願者は18,000名を数えたが、彼等はスペイン内戦の経験者であり、彼等は強制ではなく、自らの意思で志願したと言われている。

彼等の多くは職業軍人であり、スペイン軍は8名に1名の将校がおり、将校の割合が高かった。義勇軍は4個歩兵連隊を基幹とし、師団長にはアグスチン・グランデス将軍が任命された。義勇兵達はこうしてドイツへ送られた訳であるが、彼等はドイツ国民の熱狂的歓迎を受けた。

彼等は第250師団の名称が与えられたが、一般的には青師団と呼ばれることが多かった。これはスペインファラン党のシャツの色に由来する。青師団の初陣は8月20に出た。しかし、彼等への指示は右往左往していた。これは一部にドイツ軍がスペイン義勇軍の戦力を過小評価していたからだとも言われている。

結果として青師団はレニングラード包囲戦に参加することとなった。10月11日の夜に青師団はウォルフ川からイリメニ湖西岸の幅50キロの前線が割り当てられた。

戦闘はすぐに始まった。12日ソ連軍は青師団の前哨拠点に攻撃を加えてきた。そこには第269連隊第大隊が守っていたが、彼等はソ連軍を見事に撃退した。青師団は50名の敵を倒し、80名近い捕虜を得た。

またドイツ軍のレニングラード包囲も完全な物ではなかった。そこで北方軍団は他の師団と共に青師団の第263と第269の2個連隊が派遣された。

ソ連軍はそこに攻撃を加えてきた。強力な砲撃の後にソ連軍歩兵が乱入してきて、各地で激しい白兵戦が始まったが、青師団はこれを押し返した。ドイツ軍は青師団に対して3箇所の村の攻略を命じていた。そこでドイツ軍は第269連隊の第1大隊が派遣された。

11月12日ソ連軍の攻撃が第1大隊に対して加えられた。前線はたちまちソ連軍に突破され、青師団は雪の中に孤立した。青師団は後退を開始したがポサドの村を守っていた部隊は完全に包囲されてしまった。気温は零下40度まで下がった。寒さの為に兵士等は一睡も出来なかった。

ソ連軍は投降を呼びかけたが、青師団の士気は高かった。かれらはこれを拒絶した。その後青師団に後退命令が出た。青師団の戦死者120名、負傷440名、行方不明20名を数えた。12月10日彼等は後方まで下がり再編成に入った。

1942年冬、攻勢に出たソ連軍はドイツ第290師団を撃破した。その際、青師団に緊急命令が出された。1月10日フスワトに孤立したドイツ軍救出の為、スペイン・スキー中隊の206名が向かったが、凍結したイリメリ湖を渡った。たちまち120名の凍傷者をだしたが、ソ連軍と交戦、撃退に成功した。彼等はその後、34名まで減っていたが彼等には鉄十字章が授与された。更にドイツ軍と合流して最終的に無傷でスペインに帰還できた青師団兵士は12人のみだった。

その後、青師団はオィルホフ包囲陣に参加し、その高い戦闘力はドイツ軍からも評価された。オィルホフ包囲陣の戦いでドイツ軍は勝利した。また、師団長のグランデス将軍はベルリンに召還され、ヒトラーから直接柏葉騎士十字章を授章され、そのままスペインに帰国した。グランデス将軍の後任にはエステバン・インファンテス将軍が就任した。

1943年になると、レニングラードのドイツ軍はソ連軍の大攻勢を受けることとなる。青師団も北方のムガへ派遣が命令されたが、その正面にはソ連軍の戦車2個師団を含む5個師団が配備されていた。戦闘は3時間の準備砲撃の後に開始され、歩兵と戦車の大軍が青師団に襲い掛かってきた。師団崩壊の危機に対し、インファンテス将軍は部隊をイショーラ川まで後退させたが、青師団は前線を死守した。ソ連軍は後退したが、青師団は3,600名もの死傷者を出していた。

1943年はスターリングラード戦での敗北に始まり、クルスクにおける作戦の失敗などドイツ軍にとって不利となっていった。

青師団は10月5日に開始されたソ連軍の反撃を撃退した後、ヴォロソヴォ地区へ後退し、師団は休養のはずであったが第18軍司令官リンデマン将軍はインファンテス将軍へ騎士十字章を授与し、青師団のスペインへの帰国を告げた。1943年10月29日、部隊は国境を超え祖国へと戻っていった。東部戦線で勇敢に戦ったスペイン義勇軍の損害は戦死3,934名、負傷8,466名、行方不明326名を数えた。

だが、帰国を拒む青師団の兵士も大勢いた。

彼等は1944年までドイツ軍と共に戦った後帰国した。更に約150名のスペイン兵士は武装親衛隊へと身を投じ、ベルリン攻防戦などでドイツの最後まで共に活躍したと言う。

(藤原真)

photo:wikipedia

速報! 東京ホビーショーにマルイの年末商品発表

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秋のホビーショーと言えば、毎年10月に開催されていたプララジショーこと、全日本模型ホビーショーなのですが、今年は1ヶ月早く、9月に「東京ホビーショー」なるものが開催されます。

なんでも全日本模型ホビーショーから分かれて、今回初めて開催されるとのことで、ホビーの世界もいろいろあるなぁと…いやいや、ホビーの世界も広がりを見せているなぁ、と感慨深いものであります。

で、ですね、この東京ホビーショーに東京マルイが出展するとの連絡を先ほどマルイさんから直々に頂きました。アザーッス!!

マルイのエアガンが!! ビックサイトに集結!

場所もプララジショーの幕張メッセではなくて、東京ビッグサイト(西4ホール)で開催されます。
まあ、名称も東京ホビーショーですからね。開催場所だけ千葉ではややこしいですもんね。

しかし、このチラシのコピーデザイン、最近のマルイ社内では流行っているんでしょうか?
新次元システムのチラシを彷彿とさせるなんともセールチックなデザインですよね。(^_^;

ともかく、東京マルイの年末商品が10月ではなくて9月にわかるというのはイイですよね~。

他の出展社も、タミヤ、京商、ヒロボー、双葉、ヨコモなどのメジャーどころが名を連ねています。

開催は9月16日、17日の二日間
一般日と業者招待日兼ねていて、初日は祝日の月曜なので報道関係者と一般の来場者が同時に情報を共有できるというメディア泣かせな日程でもあります。

ちなみに、10月のプララジショーも開催されますが、東京マルイは出展しないそうです…。

東京ホビーショー 公式サイト

http://www.hobbyshow-tokyo.com/

AK47の水中射撃スーパースロー映像が凄い!

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AK、言わずと知れたカラシニコフライフルですが、これの水中射撃映像が凄いのです。

弾薬は7.62mm×39弾を使っていると思います。

ハイスピードカメラで撮影してますが、弾丸が発射された瞬間の水中の小爆発といいますか、圧縮された空気の動きがとても不思議です。

レトロGUN ファルコントーイ ルガー アーティラリー カスタム

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。
今回はファルコントーイ ルガー アーティラリー カスタムです。

レトロガン5-01

イラスト&解説: ユメピョン

サバゲで使える格安スポーツビデオカメラ

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秋葉原のGunsmithバトンさんに遊びに行ったらサバゲで使えそうな小型ビデオカメラを発見!!

iON AIR PRO スポーツビデオカメラです。

最近はサバゲで銃やヘルメットにビデオカメラを搭載してYoutubeで公開してる人も多く見かけるようになりましたよね。
そんな用途にぴったりの格安ビデオカメラです。

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パッケージはこんな感じ。家電屋さんでも売っている商品ですがGunsmithバトンのパッケージは一味違うのです。

 

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バトンの商品にはこのピカティニーレール対応のマウントステーが付属しているのです!!
銃への取り付けはこれでバッチリ!! さすがガンショップでの販売品ですね。

 

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本体にはカメラネジで取り付けます。

 

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銃側にはおなじみの20mmレール対応。もちろんカメラを天地逆側につけることもできます。
このカメラは電源を入れた時点で天地を認識して90度どごとに角度を自動変更してくれるので、動画編集時に画像がさかさまにならなくていいですね。
対応メディアは最大32GBのmicroSD/SDHCカード。

このカメラ、電源を入れるとブルルとバイブが効きます。撮影の開始時と終了時もどうようにブルルっとします。
ヘルメットサイドにマウントしたときなど、電源ランプが見えない時に重宝しますね。

画質は1080pフルHDで30fps、720pならば60FPSが撮れます。2倍スロー撮影が可能ですね。
バッテリーライフは2.5時間とのこと。

また10m防水なのでプールや海でのレジャーでも活躍しそうです。

 

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モニター用の液晶はついていませんが、付属のWiFiモジュールでスマートフォンに映像を飛ばすことができます。

価格はなんと20,990円!! コストパフォーマンスに優れた一品ですね。

テスト撮影した映像も掲載しておきます。

 

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バトンオリジナルの0.12gBB弾が売ってました。価格は4000発で846円。バイオBB弾でないので使用には注意が必要です。

 

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こちらはセラコートの色見本。セラコートは実銃の塗装でも使用される強靭な皮膜を形成する塗装方法で、最近国内でも注目が集まっています。
国内では鈴友株式会社が施工業者として有名ですね。この鈴友さん米国NIC社からセラコート塗装の認定を受けている業者です。

また、鈴友さんは実銃の知識も深く、どの時期のどのメーカーのM4はどの色、といった細かい情報も持っているそうです。

この鈴友さんの代理店のひとつがバトンさんというワケですね。

機会があれば今度セラコートについてもっと詳しく取材してみたいですね。


ドイツ潜水艦艦隊の苦悩

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潜水艦

ドイツの再軍備が始まった1936年、その仮想敵国はフランスとポーランドであった。だが38年にヒトラーはイギリスに変更する。これはドイツの再軍備に大きな影響を与えた。

レーダー提督は強大な海軍力を持つイギリスと正面から戦って勝ち目のないことを知っていたのだ。海軍のレーダー提督はヒトラーに二つの案を提示した。その一つが装甲艦を建造してイギリスの通商破壊に徹すると言う物、もう一つはイギリス軍と対抗できる兵力を準備するというものであった。

結局、1939年1月に通称作戦が採用され「Z計画」と名づけられたが、レーダー提督は45年までに軍備を整えればよいと言う確約を得ていたが、結局39年にドイツは戦争に突入してしまい、Z計画は事実上空中分解してしまった。

当時ドイツ海軍が保有していた艦船は巡洋戦艦2隻、ポケット戦艦3隻、巡洋艦8隻と僅か30ほどの駆逐艦と水雷艦に過ぎなかった。ドイツ海軍の主力として期待されていた「ビスマルク」と「ティルピッツ」はまだ建造中であった。そこで通商攻撃の主役は潜水艦のUボートを中心にせざるを得なかった。

第二次大戦中に製造されたUボートの総数は1,131隻で、一番多く製造されたのがⅦ型であり709隻が製造されている。乗員は44名であり、その後続距離は90海里を有していた。(型により異なる。)

開戦時、Uボートは僅か57隻が就役していたに過ぎなかった。開戦と同時にUボートは作戦を開始するが、それにはヒトラーによる制約があった。Uボートが船を沈める場合は一度浮上して臨検を行い、撃沈の可否を決定することだった。これは「ハーグ協定」に決められており、ヒトラーがイギリスとフランスを刺激するのを恐れた為だと言われている。

その件にドイツ海軍は非常に危険な行為だとして反対して、結局全ての制限が解除されるに至った。こうしてUボートは黄金時代を迎えることとなった。

ドイツはイギリスのシー・レーンを遮断する為に、アイルランド西側に哨戒線を設定し、1つの船団にUボートを集中して攻撃させる「狼群戦術」と呼ばれる戦術を採用した。その戦果は39年9月の開戦から僅か半年で、Uボートは輸送船230万トンを撃沈した。

1940年フランスが降伏するとUボートは直接大西洋に乗り出せるようになり、その結果40年6月から12月までの間に250万トンもの戦果を挙げることが出来た。

1941年12月にアメリカが参戦すると、デーニッツは「太鼓の連打」作戦を発動し、戦争準備の整わないアメリカ軍の輸送船多数を撃沈している。

Uボートの隊員は極めて健康な者に限られており、その狭い船内に私物を持ち込むことは出来なかった。また、50名前後の隊員全員のベッドはなく、ベッドは他の隊員が寝た後の生温かいベッドに寝た。食料品は天井からハンモックで吊り下げられ、平均2週間分の食料が搭載された。荷物はあらゆるスペースに積み込められた。

彼等は約2ヶ月の間、衣服は着替えることが出来ず、洗髪もひげさえ剃ることができなかったので、帰航した彼等は異常に体臭がきつかった。しかし、彼等は船長を尊敬し、その団結力は極めて高かった。

Uボートの被害が甚大になるにつれてイギリスやアメリカは本格的な対策を迫られた。船団の護衛は強化され、レーダーや対潜迫撃砲「ヘッジホッグ」と言った新兵器の投入によって次第にUボートの活動は狭められていった。更に護衛に空母が付く様になると、対潜哨戒機が常に飛び回り、水上に上がることさえ困難になった。1943年5月頃のドイツ軍海軍は最大の危機に直面していた。

ドイツ軍も敵レーダーの逆探知装置や音響魚雷を投入するが、1944年3月、遂に「狼群戦術」は終了せざるをえなかった。44年以下のUボートはかつて「海の狼」として活躍していたが、その頃になると活動の場を次第に失い、翌年5月の敗戦を迎えたのであった。

1939年9月から45年5月までにUボートがあらゆる海域で撃沈した戦果は合計2,603隻、1,357万総トンに達した。その90%は大西洋と隣接海域、カリブ海で記録されている。他に175隻の軍艦が加わる。

その内849隻のUボートが撃沈された。またUボートに従事した乗務員は4万人。その内2万8,000人が戦死し、5,000人が捕虜となった。彼等の乗務員7割が戦死するという過酷な戦闘であった。

(藤原真)

photo: wikipedia

KSCのスチェッキン

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実銃のスチェッキン・マシンピストル photo by Vitaly V. Kuzmin wikipedia

以前KSC本社に遊びに行ったとき、いろいろな試作品を見せていただき、その中でスチェッキンの話題も出ました。
寺田社長曰く、「スチェッキンも図面は全部出来てるんだよね。」ということでしたが、「ただ、構造上の問題があって、お蔵入りになったんだよね。」ということでした。

うーん、残念。M93Rみたいなガスブロ・フルオートのマシンピストル、東側のモデルで欲しいですよね~。

KSCのスチェッキン、幻のモデルとなりそうです。

レトロGUN レプリカ ワルサー P-88

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。
今回はレプリカ ワルサー P-88です。

レトロガン5-02

レトロガン5-02-2

イラスト&解説: ユメピョン

ドイツ戦闘機隊 vs 連合国4発爆撃機

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B-17

1940年7月に開始された、バトル・オブ・ブリテンで敗北したドイツ軍は、防空体性の強化に努めた。前年1939年9月3日「ハンプテン」18機と「ウェリントン」9機が北海上空の艦隊探索に来たが、それが大戦後初のドイツ本土領空侵入であった。

またイギリス軍は夜間爆撃を好んだ。昼間爆撃は目視で簡単に相手の位置を掴める事が出来たからである。巨大な爆撃機は格好の餌食になった。そのためにイギリスは夜間攻撃を利用したのである。

ドイツ軍の防空体制としてはサーチライトと対空砲が主力で、1942年には照射能力の高い直径210センチの40型が導入された。また、ドイツ軍では1940年からレーダーを導入した。迎撃レーダーのウルツブルグレーダーは警戒レーダーのフライアと連携して「ヒンメルベット」と呼ばれる防空網を確立した。

ドイツ軍の防空兵器である高射砲とサーチライトが唯一の実線兵器という点では他の国と同様であった。また高射砲の「Flak36」8.8センチ高射砲は傑作火砲であった。対空陣地はブラックバッテリーと呼ばれ、大戦初期には10名からなる兵員から構成されていた。それは指揮官1名、砲主1名、照準手1名、「高位置1名、低位置1名」、装填手1名、信管セッター1名、砲弾運搬手からなっていた。

迎撃には当初、単発機のBf109が使用されたが、1人のパイロットが操縦、航法、目標捜索の3役をこなすのは困難であった。そのためにドイツではBf110双発戦闘機やJu88爆撃機を夜間戦闘機として使用した。

1940年6月26日から10月13日までの109日にイギリス空軍爆撃機隊が出撃した昼間爆撃は102回、8,804機で180機を損失。総数10,689機が出撃し6,010トンの爆撃を投下した。被った被害は246機であった。イギリスは次第に新型の4発エンジン搭載のハンドレベージ・ハリファックス、ランカスターなどを投入した。

また、レーダーの性能も当初はドイツが優位に立っていたが、次第にイギリス側がドイツ軍を凌駕していった。

1941年11月から42年2月までの期間、イギリスはほとんど成果を挙げることが出来なかった。軍の調査によると41年6月と7月に爆撃した際、4機に対し1機しか目標の8キロ以内に届いていなかったのである。しかも1941年7月7日から11月までに空軍は夜間爆撃で414機、昼間爆撃で1112機の爆撃機を消耗している。その結果ピンポイント爆撃から、無差別爆撃に切り替えられた。

1942年にアメリカが参戦すると、アメリカ軍はイギリスの爆撃側と対立した。アメリカ軍は昼間爆撃を望んだが、イギリスは夜間爆撃を望んだのである。

当時アメリカには「空の要塞」といわれた重武装なB-17 4発爆撃機と精密なノルデン爆撃照準器をもってすれば、昼間爆撃でも大丈夫だろうとアメリカ軍は考えたのである。

1942年5月30日夜、1,000機の爆撃機がドイツのケルンを襲った。内訳は「ウェリントン」602機、「スターリング」88機「ハリファックス」131機、「ホイットレー」28機、「ランカスター」73機「マンチェスター」46機、「ハンプデン」79機の総計10,047機であった。

投下された爆弾の内3分の2は傷痍弾だった。死者は469名に及び18,432戸が消失、40,586戸が損壊した。8月17日にはアメリカ軍のB17が12機で爆撃をして全機が帰還した。一方のドイツ軍は390機のほとんどがBf110夜間戦闘機であった。

1943年2月は連合国が「1日24時間連続爆撃」と呼ぶ昼夜を問わない戦略爆撃が開始された。アメリカ軍爆撃機隊はドイツの工業地帯に向けられてきた。その際16機が対空砲火とドイツ軍戦闘機によって撃墜された。また、376機のB17は60機が撃墜された。

その頃は護衛戦闘機が爆撃機を目的地近くまで護衛するのが常識であった。航続距離の短い戦闘機はその途中で帰還するが、そこを狙ってドイツ軍戦闘機が急襲するのである。

連合国は当初P38やP47を使用していたが、戦闘機が帰還した後のBf109、Fw190といったドイツ軍戦闘機の攻撃は熾烈を極めた。

やがて連合国にとって救世主が登場した。それがP51D戦闘機で、1944年から登場し、当時のドイツ軍全ての戦闘機よりも優れた性能を示した。爆撃機の最後まで護衛が可能になると、連合国爆撃機の被害は減少し、逆にドイツ軍は新たな策を練らねばならなくなった。

ドイツ軍戦闘機の20ミリでは爆撃機には全く歯が立たず、その口径は30ミリに大型化され、21センチロケット弾を搭載した機種も登場した。

 1943年になると、「シュトリム・グリッペ」(突撃飛行隊)が編成された。Fw190戦闘機には防弾装甲を施し、敵爆撃機100メートルまで接近して攻撃するという、英雄的な行為が必要であった。これを提唱したのはヴァルター・ダール少佐であり、悪化しつつある防空戦を打開するために考え出された。シュトリム・グリッペは43年7月から実戦配備され、7日には初陣を飾った。

 特にB17は前方に12.7ミリ機銃4丁、動力銃塔に2丁を装備していた。基本的にドイツ軍戦闘機は前方と後方から同時に攻撃を仕掛ける方法を基本としていた。ただし、爆撃機は密集して飛行している為に、その攻撃は中々難しかった。

更に1945年には圧倒的な連合軍爆撃機に対して、敵爆撃機に体当たりをして撃墜させるという事を目的に「エルベの決死隊」と呼ばれる特別攻撃隊が編成された。これは

日本の「震天制空隊」にも通じるものがある。

1945年、ようやくドイツは新型機を投入することが出来た。これがMe262ジェット戦闘機で、当時の連合国のどの戦闘機よりも高速であった。1944年に開発していたものをヒトラーが爆撃機に使用しようと、戦闘機として使用するのは許可しなかったのである。Me262ジェット戦闘機は終戦までの間に、550機余りの敵爆撃機を撃墜した。

(藤原真)

photo:wikipedia

ブルーノZB26軽機関銃の電動ガンが迫力である

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秋葉原のGunsmithバトンさんに遊びに行ったらブルーノZB26軽機関銃の電動ガンが置いてありましたよ。
MYTHという海外ブランドの商品です。

 

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このマズルブレーキ部分とアウターバレルの放熱フィンがたまりませんね。
実銃のZB26はチェコスロバキアが1928年に開発した軽機関銃で、弾薬は7.92mm×57弾を使用します。

 

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マガジンははレシーバー上部に突き刺します。

 

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マガジンを抜くと蓋をできる仕様です。たしかに上からだと埃とかゴミが入りそうですから必要ですね。
レシーバー側面の大きなダイヤルはリアサイトのエレベーションダイヤルです。これまた大仰なダイヤルですね。

 

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キャリングハンドル周り。結構良い質感ですよね。

 

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バッテリーは 木製ストック内に収納します。バートスコントロールユニットがつながっています。

 

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バーストコントロールはこんな感じで本体とバッテリーの間にコネクトするだけ。
トリガーを一度引きっぱなしにするとププッと音が鳴るので、そのあとにトリガーをバーストさせたい数だけ引いて変更します。

1回引くと20連バースト、2回引くとセミオート、3回引くと2点バースト…と増えていきます。

このコネクターを取り外せばフルオートオンリーの元の状態になりますから、手軽で良いですよね。
電流値を測って制御しているみたいです。

このバーストコントロールユニットが付属したブルーノZB26の価格は83,990円(税込)です。
ちょっと値は張りますが、フィールドで使ったら注目を浴びるでしょうね~!!

 

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それと先日ハイパー道楽でも紹介したM4CQB BLOWBACKも好評発売中だそうです。
初めての電動ガンに最適なコンパクトさ、軽さ、価格と三拍子そろってます。

 

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パッケージは黒と赤の精悍な感じ。

 

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こんな感じで製品が収まっています。
こちらは価格は16,990円(税込)。

レトロGUN タナカ ベレッタ M1934

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。

今回はタナカ ベレッタ M1934です。

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レトロガン5-03-2

レトロガン5-03-3

 

イラスト&解説: ユメピョン

レックス 戦場をかける犬

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並木書房から新刊のご紹介。

『軍用犬レックス』(原題 Sergeant Rex)は、イラク戦争を舞台にしたノンフィクションです。

レックスは海兵隊の軍用犬で、犬種はジャーマンシェパード。じつは軍用犬が戦場で活躍したのはベトナム戦争までで、その後軍用犬の出番はありませんでした。
ところが、イラク戦争で簡易爆弾(IED)の犠牲者が増えたことから、爆弾を探知するために軍用犬が30年ぶりに投入されました。レックスの任務は武器の隠し場所や自爆テロ犯、そして兵士も市民も見境なく殺傷する簡易爆弾を嗅ぎだすこと。

そのレックスを危険のど真ん中に導き、信頼の絆を頼りに生還させるのがダウリング上等兵の役目です。

本書はイラク戦争を舞台に訓練も装備も全く手探り状態でスタートした軍用犬チームの活躍を描いたノンフィクションです。

少年時代から動物好きだったダウリングは盲導犬を育てたこともあり、この体験から入隊後は軍犬兵になる決意を固めます。最初のパトロールでレックスは爆弾や銃声におびえてすくんでしまいますが、リード(犬綱)の先にいつもダウリングがいることで徐々に任務をやり遂げる勇気を得ます。

50度を超える気温、息が詰まる土煙、そして昼夜を問わず敵の待伏せが潜む街角にレックスは嬉々として進んでいきます。

次の一歩で爆発が起こり、バラバラに吹き飛ばされるかもしれない恐怖は、読者にも否応なく伝わります。

大学を中退し、目標を見失ったダウリングが、レックスに出会うことで、自分の居場所を見つけ、自分を取り戻していく姿は、本書のもう一つの魅力です。

また「訳者あとがき」に詳しく紹介されていますが、退役したレックスが安楽死されるのを恐れた2人目の軍犬兵が2万人以上の嘆願書を集めて、引き取りを実現し、そのセレモニーは全米に放送され、犬好きの米国人を感動させました。

緊張に満ちた爆弾探知任務と銃撃戦の洗礼に彩られた「レックス 戦場をかける犬」は、人と犬の絆がいかに任務遂行に貢献し、数知れぬ人命を救ったかを描いた胸躍る物語です。

 

レックス 戦場をかける犬
マイク・ダウリング[著]
加藤喬[訳]

四六判並製280ページ+口絵16ページ
定価1800円(税別)
2013年9月下旬刊!

レックス 戦場をかける犬


世界最初のアサルトライフル「MP44」

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MP44

大戦も後期になると、ドイツ軍の兵員の不足もあり、それに伴い攻撃力も低下した。他国が自動小銃を既に歩兵に装備させていたのに対し、ドイツ軍は未だに1発ずつ装填するモーゼルk98小銃が主力であった。

ドイツ軍部はその不足分を補う為に、新たなるコンセプトを持つ銃を開発した。これがMP44である。この銃の特徴は弾薬を小型化して銃本体を軽量化し、小銃と機関銃の機能を併せ持つ性能を持ち、ドイツ軍では「突撃銃」の名称が与えられた。

銃の開発に当たっては、ハーネス社とモーゼル社の競作をさせた結果、ハーネス社の銃の方が優秀だと判断され、MKb(42)と名称が付けられた。この銃は1942年から43年にかけて11,833挺が生産され、主に東部戦線で使用された。

1943年にはMKb(42)は大きな改良を受けた。まず、バレルが銃口に向かって切削加工された。そして、フロントサイトの基部も大きく変更された。リアサイトを取り付けるレールはプレスになり、ZF41照準器が取り付けられた。そして名称もMP43と名づけられた。

ところがヒトラーはこの銃の開発には反対であった。弾丸の種類が増えて配給が混乱することを恐れたのである。ヒトラーには既存のSMGの改良版であると偽って開発は続けられた。

また1943年、ヒトラーは改めてMP43の開発を中止する命令を出したが、1943年3月には評価目的の為に製造は続けられた。

MP43の高性能はヒトラーの耳にも入った。MP43一挺が98k5挺分の火力分に相当することが証明されたのである。MP43は1944年も製造が続けられた。名称もMP44とされた。

また、高給将校からもっとMP44を求める声が上がり、ヒトラーは宣伝でも勝利することを込めて、その名称もSturmgewehr44(突撃銃)の名称に改められた。

実際MP44はMP40の弾丸の届かない距離での市街戦でも、簡単に敵を掃射することが出来た。更に、軽機関銃の代わりに援護射撃することが可能であった。

また、MP44には塹壕などで頭を出さないで弾丸が90度曲がって発射できるクラムラウフと呼ばれる筒状の装置も開発された。更に、MP44は国民義勇兵に装備させる為に、銃を簡易化させたStg45を開発させたが、完成したのはドイツの敗戦の後であった。

MP44は425,000挺が生産された。全長940ミリ、銃身長419ミリで重量は5.22キログラム、装弾数は30発で7.92ミリの弾丸を毎分500発以上発射可能であった。

戦後も世界各国はMP44の影響を色濃く受け継いだ。特にソ連の場合は拘束されたヒューゴ・シュマイザーとミハイル・カラシニコフがMP44と同じ使用弾を使用するAK47を開発したが、MP44の雰囲気を色濃く残している為に、外見的にも似た印象を受ける。その点、他の西側諸国は各自銃の開発に固執した。アメリカは戦後もM1カービンを使用し続けた。M16カービンが登場するのは1961年であった。

文字通りMP44は後のアサルトライフルに大きな影響を与えたのである。

(藤原真)

photo:wikipedia

レトロGUN レプリカ モーゼルHSc

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。

今回はレプリカ モーゼルHScです。

レトロガン5-04

レトロガン5-04-2

イラスト&解説: ユメピョン

何故、日本とドイツは4発機爆撃機を作らなかったのか

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4発爆撃機

第二次大戦当時、両国に共通していることがある。それは両国とも4発機爆撃機を製造しなかったことである。今回はその理由が何故だろうか検証したいと思う。

ドイツの場合は第一次世界大戦でドイツは ツェッペリン・シュターケンRⅤⅠなどの4発エンジンを搭載した大型爆撃機を製造し、1~2トン爆弾を搭載して、ロンドン空襲などに参加している。

ドイツの敗戦後、ドイツはベルサイユ条約によって軍備を禁止され、1935年のヒトラーの再軍備までに兵器の開発は禁止されていた。その分ドイツはイギリス・アメリカなどに比較して4発機の開発が遅れた理由があった。ただし、ルフト・ハンザなどでは4発機旅客機「ユンカースJu290」を開発していたが、ドイツ軍はこれらを徴集して、性能上輸送機としてしか使用していない。

また、ドイツ空軍は基本的に戦術空軍であり、軍備再建時にドイツ空軍は陸軍に対する戦術支援を基に編成された。また、当時軍部は大陸国のドイツは周囲を国に囲まれており、爆撃機に長大な航続力を持たせる必要性がないと思われていた。大戦初期に大活躍したユンカースJu87爆撃機などで充分満足していたと思われるのである。

更にドイツ軍部は戦争が比較的に短期間で終わると思われており、イギリス、アメリカの様に、長大な航続距離を持つ戦略爆撃機を持つ必要性がなかったと思われる。

大戦後期になるとドイツでも4発爆撃機の重要性を認識してHe117を開発したが、満足な性能を得られなかった。更にドイツでは4発機を製造する満足な施設がなかった。

これに対して日本軍も同様に大戦では戦術空軍として軽爆撃機を使用した。だが、日本は1937年にアメリカからダグラスDC・4Eを輸入した。これが当初からの欠陥機で、アメリカは始めから欠陥機を売ったと言われている。更にこれを基に作られた試作機は「深山」と名づけられたが、搭載エンジンの馬力不足や、振動問題などに悩まされた。結局採用は中止されて、試作機は輸送機として使われたと言う。

また、日本は1944年に捕獲したアメリカ軍のB17を参考に4発機「連山」を作ったが、これも試作機で終わっている。

更にアメリカ本土爆撃用に6発機爆撃機「富嶽」を試作しようとしたが、当時の日本では搭載予定の5,000馬力エンジンなど開発できる技術はなく、机上の空論で終わっている。

日本はドイツ以上にアメリカ・イギリスとの間には工業力の差があり、その穴を埋めることが最後まで出来なかったのである。

単純にドイツ・日本両国に言えることは、戦争初めからイギリスやアメリカの様に、4発機を作る必要性を持っていなかったことにある。更に戦略的兵器として4発爆撃機の必要性に気付いたのが遅すぎた。

そうして両国共に4発機爆撃機の必要性に気付いた頃、既に戦況は悪化し、開発する為の資材を見出せなかった事が原因であると思われる。

(藤原真)

photo:wikipedia

日本に3号突撃用戦車がドイツから供与されたら、戦局はどうなったか

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3突

日本軍の九七式中戦車

Ⅲ号突撃砲戦車といえば、その低い車高と強力な75ミリ砲搭載で、一部ではソ連軍戦車を一番撃破した戦車として有名である。当時のソ連軍ではⅢ号突撃砲とは戦闘を行うなと言う指令が出ていたという噂があるくらいである。

日本の主力戦車である九七中戦車は、15トンの重量に170馬力のエンジンを積み、25ミリの装甲厚を持ち、主砲は47ミリ短砲身砲を装備、38キロの最高速で、航続距離は210キロであった。

日本戦車隊はジャングルを切り開きながら、アメリカ軍M3軽戦車との戦闘には勝利したが、主力であるM4シャーマン戦車に対しては性能的に圧倒的に不利だった。

1943年以降、日本は物量で勝る連合軍の反撃に合い、日本の占領してきた島々が次々とアメリカ軍に占領され、守備隊の日本軍は玉砕を強いられていた。その原因の一つに戦車の性能があった。日本軍の九七式戦車の47ミリ砲ではM4シャーマン戦車の前面装甲はおろか、側面を零射撃で貫通できるほどの威力しかもたなかった。その時、軍部はドイツに協力を求め、戦車以上に東部戦線で活躍をしていた突撃砲戦車の提供を求めるべきであった。これが独ソ線との大きな違いである。米英国はレンドリースとして、ソ連に大量の戦車とトラックや物資を送り、ソ連の戦線を支えたのであった。
1944年8月、マッカッサー率いる兵力20万人がフィリピンに再上陸する。その第1騎兵師団に所属のM4戦車40両を先頭とする2個大隊が10月24日に攻撃が始まったレイテ湾の戦場に投入される。

そこに日本戦車第二師団のⅢ号砲突撃砲戦車が待ち構えていたら、恐らくアメリカ軍の上陸すら困難なはずとなったはずである…

——
ドイツ軍から給与されたⅢ号突撃砲戦車50両は東部戦線で実戦研修を積み、半年にも渡りT34を初め、強力な敵戦車と戦ってきた。今回は彼等のたくましいその腕が生かされるのだ。日本人戦車兵達の戦意も旺盛だった。まず、彼等はⅢ号突撃砲戦車を木の枝などで偽装し、米軍戦車を上陸させて引き付けた。敵から見える場所には当然いない。

そして、Ⅲ号突撃砲を程良く分散して配列したのである。何も知らずに進むM4戦車の隊列。戦車間は無線で交信して、体長の指揮を待つ。

M4戦車は縦隊を組み、あたかも勝利したように進んで来る。実際、太平洋戦争ではM4は無敵だった。敵は今回もやすやすと戦車を進ませる。

ある地点まで相手をおびき寄せると、隊長の「撃て」という号令が各突撃砲に伝わる。距離は1キロ、敵からこちらの正体はわからない。いきなり先頭のM4戦車が爆煙を挙げて黙った。次に最後尾のM4に1発浴びせた。最後尾のM4戦車に放たれた48口径75mm徹甲弾は前面装甲を貫通し、ひときわ大きな爆音を立てて、砲塔ごと吹き飛んだ。恐らくは弾薬に引火したものと思われる。それを見ていた周囲の日本軍兵士たちは大きな歓声を上げた。

敵はパニックに陥っているように、当たりかまわず発砲をした。M4戦車は次々に破壊され、その屍を晒す。

続けて訪れたM4も敵の位置が分からない。Ⅲ号突撃砲戦車の偽装に引っかかったのである。M4は破壊されたM4戦車の脇を進んできた。今度も良い獲物である。隊長の「撃て」の号令で、先頭車両が破壊され、次に最後尾が破壊された。これはドイツ軍の良く使う方法で、敵を動けなくする一番良い方法なのだ。敵は砲塔を辺りへ動かしては見えない敵に向かって攻撃していた。

一両、一両、敵は血祭りに挙げられる。

完全にパニックに陥った敵は戦車を捨てて、中から出ようとしていた。

戦闘は僅か30分で決まった。全てのM4戦車は3号突撃砲戦車に撃破されたのである。

やがて、敵重砲がⅢ号突撃砲戦車を襲う。位置が分からないから、直撃するかぎり破壊されることはない。こうして40両のM4戦車は、ドイツ軍式戦法で全てが破壊されたのである。こうして敗北が続いていたアメリカ軍に日本軍が一矢を向いたのである。
——

Ⅲ号突撃砲戦車はM4シャーマン戦車と互角以上に戦え、アウトレンジで攻撃が出来、戦場は恐らくアメリカ軍の負傷兵で埋め尽くされたはずである。1944年10月のフィリピンのレイテ島に米軍が上陸した際、その火力と防御力はかなり米軍を苦しめたはずである。ただし、これは正面攻撃に限った話であって、米軍戦車隊が左右に分散すれば話は変わるが。

ドイツ軍のⅢ号突撃砲が戦闘に参加した場合結果は史実とは全く異なっていたかもしれな。

日本とドイツが実際に武器や物資の交流を行っていれば、戦史はかなり変わっていたはずであると思うのだが如何だろうか。

(藤原真)

photo:wikipedia

レトロGUN マルゼン レミントン・ウイングマスター

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昔懐かしいレトロなトイガンをイラストと写真で紹介するレトロGUN よろず譚。

今回はマルゼン レミントン・ウイングマスターです。

レトロガン5-08

イラスト&解説: ユメピョン

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